教育とは何か

 

ずっと密室の家に居て、子供とだけ関わる専業主婦状態が続くと、問題解決能力みたいなものも低下している様な気がする。




実は最近、ささいな事で、頭の中が混沌としてきて容易に答えが導きだせなくなってきたのだ。

混沌といえばオウムだ。

一日の内の数時間をオウム報道の視聴にあてている私は、時々信者が教義を信じこんでしまうメカニズムを理解してしまう時があるのだ。生と死が対局にあるものではなく、同一線上にあると語った「城の崎にて」の感覚に似て、オウムの教義は人間社会に敵対するものではなく、単に常識と非常識の間のラインが実社会と違うだけだと感じる様になってきてしまった。

教祖は本当に自分の王国を創りたいと思っていたのだろう、その王国の中の人達は、その中の規範に従って生きているだけだったのだろう、と想像できる。テレビの報道の中で女性記者が「前にどんな理由をつけたって殺人は許されることじゃないのよ!」と信者に語りかけていたが、そんな事はないのだ。死刑制度は依然残っているし、正当防衛の上の傷害致死や、精神的に尋常でなかった場合、色々許される理由はあるのだ。時代や国によってもその線引は違う。人間は討ち首でも犬は殺すな、という時代もあれば、安楽死を認めている国もあって、死刑制度が存在しない国も多い。

それぞれの国が法律を作ったりすることは、単に常識と非常識の線引を何処にするかを決めているだけで、人間の普遍的な部分を文書化しているわけではないのだ。

そう考えてみると、どちらが正しいか、というのはハッキリと答えられなくなってくる。マイノリティーがいつも間違っているとは限らないのだ。

そして最近の私の頭の中は混沌としている。火種はオウムというより育児方針だ。育児やしつけというのは、社会規範の中で自己実現するセンスを身につけることだと思う。親の価値観が、子供の「常識ー非常識」のラインを形成する。自分の行動に自信が持てないと説明ができないのだ。

ある本で、「Aちゃんが野原に咲いているお花を摘んでいたところ、Bちゃんにそんな事をしたらカワイソウだといわれました。Aちゃんは、お母さんに素敵なお花を見せたかったのだろうし、Bちゃんは、生き物を大切にしなさいと教えられたのでしょう。どちらも心が豊かなのには違いないですね。」という文章を読んで考えさせられた。

私も迷うところだ。

外でお花をむしり取ろうとしていた長女をなだめて、家には切り花を飾るとはどういうことか。

ママの肩をコンコンとすると誉められるのに、長男のお腹をコンコンすると怒られる。

生き物はカワイカワイしてあげて、と言っておきながら、蚊をパチンと殺す。

毎日毎日自分の言っている矛盾に気づいて愕然とする。これから先、長女が大人になっていく中で、もっと悩んでいくんだろうと思うと、頭の中がヘトヘトになってしまう。

今の私は、宇宙の事を考えると夜も眠れなかった中学生の時の様な、混沌の時代を迎えている。
Tweet about this on TwitterShare on Google+0Share on Facebook0Share on LinkedIn0Share on TumblrTEmail this to someone