ゴミは何故ゴミ箱に入れなければならないか

ゴミをゴミ箱に捨てることが出来ない人が私は嫌いだ。




どんなに難しい理論を吐ける人でも、ゴミをゴミ箱に捨てることが出来ない人は最低だと思っている。

子供の躾について、最近色々と思うことが多くなってきた。というのは、よく道端で子供を叩いているママを見かけるからなのだ。帰りたくないと泣く子供に「こんな道端で何するの!」とおしりを叩くママ。歩ける様になったばかりの子供が疲れたらしく、トロトロとよそ見をしながら歩いていると、手を引きずりながら「どこ見てんのよ!」と頭を叩くママ。

「いいかげんにしてよね」「何度言わせればいいの」など言いたい放題だ。相手は一歳位の子供だぞ!そんなにボカボカ叩いてどうするのだろう。

先日テレビを見ていてまたまた驚いたのだが、お茶が上手に飲めない1歳位の子供が、お茶をこぼしただけで、頭をボカっと叩いているママがいた。うちの長男があの家に生まれていたら、今頃半殺しの目にあっているに違いない。もう信じられない位に、お茶やら御飯やらこぼし放題なのだ。しかし、本人は必死で自分一人の力で食べようとしているのだから、叱るもんでもないと思い、全く注意などしていない。長女の時もそうだったのだが、子供というのは、うまいこと大人のテクを盗み、自分で考えて合理的な方法を選択していく。スプーンが上手に持てる歳になると、手づかみよりもスプーンの方が、うまいこと口に入ることを発見し、黙っていてもスプーンで食べる様になる。親は何にも言わなくても、ある日気付いてみると、「あれ、最近、こぼさなくなったなぁ」という状況になるのだ。

親がすべき事は、いつテクを盗まれてもよい様に、自分の行動をちゃんとすることだけだ。スプーンやお箸を上手に使い、鉛筆を正しく握ってものを書いているだけでいいのだ。教える必要は全くないと最近つくづく思う。教えて欲しい時は、子供から「書いて!」と言ってくるので、その時だけ、書いてみせる。子供は書く内容とともに、鉛筆の握り方から姿勢まで、全て自分で盗んでいってくれる。親がかりで、鉛筆の握り方講習会なんて絶対してはいけない。それだけで子供は、「書く楽しさ」が半減するのだ。子供は「教育される」のが大嫌いなのだ。自分の好奇心を的確に満たしてくれる事はありがたいのだが、好きでもない時に「あいうえお」を教えられる事を嫌う。

最近のママさんが「子供のために」と思ってしている事の大半は、「本当に子供のためだろうか、実は自分のため、つまり周りの目が恐くてやっているのではないか」という事を疑ってみるべきだと、少し厳しい事も思う様になってきた。

子供のしたい事は何だろう。

遊びたい時には思いきり遊び、甘えたい時には思いきり甘え、美味しい食事をとり、暑い時には冷たい麦茶も飲み、時には甘いおやつも食べたい。眠れない時は夜中まで大騒ぎしていたいし、めんどう臭い時には家の中でダラダラしていたい。風邪をひいてしんどい時には、いつでもママを一人占めして思いきり優しくしてもらいたいし、雨で外に出られない時は新しい「アンパンマン」のビデオも見たい。絵を書きたい時は、思いきり大きな紙に目茶苦茶落書きしたいし、荷物が届いた時には中のものをバラバラにしたい。

つまり自分の欲求に正直に生きたいのだ。

もちろん、自分の欲求が通らないという場面について教えること、それがしつけなのかもしれないが、子供には色々な事を習得する時期があり、それを見誤ってはいけないのだと思う。とにかく毎日が楽しい、朝起きた瞬間の「ワクワクした気持ち」、これを演出してあげることも大事かも知れない。これが大げさに言うと、「生きる希望」に繋がる様な気がする。

ゴミは何故ゴミ箱に入れなければならないか。その理由を色々と考えてみて欲しい。子供にどうやって教えるのか。「ゴミはごみ箱に入れなきゃダメなの!」で貴方は納得できるだろうか?

私は、ゴミ箱に捨てられる事のなかったゴミを一つ一つ拾って歩く清掃員の方の腰の曲がった姿まで想像できる子供になって欲しい、いつもそう思っている。処世術を教えるだけでは、応用がきかないという事に気付いて欲しい。

Tweet about this on TwitterShare on Google+0Share on Facebook0Share on LinkedIn0Share on TumblrTEmail this to someone