モチベーションなき教育

語学でもパソコンでもスポーツでも何でもいいのだが、何かを習得しようとした時に、一番重要なことは「モチベーション(動機づけ)」だと常々感じていた。




高齢者のパソコンサポートをボランティアで始めてから、「どうしてもパソコンやりたいんですっ!」とおっしゃる方で、結局パソコンを使えずに終わった、という人は、今まで一人としてお目にかかったことがない。

逆に、私と同世代で頭も良さそうな人の中に、「パソコン、どうやっても覚えられない」という人が沢山いることも知った。そして、前者と後者の間の大きな違いというのが、この「モチベーション」なのだ。

高齢であってもパソコンを使いたいとおっしゃる方の多くは、明確な目的意識をもっていることが多い。例えば、外国に居る娘になかなかコンタクトがとれないので、電子メールを送りたい、以前に習った中国語を使って中国語のサイトを読んでみたい、株の売買で電話がかかってくるのがうっとおしいから、インターネット株取引をやってみたい、など実に具体的で、しかも強い衝動でもって「パソコンやりたいんです」「インターネットやってみたい」と相談して来られる。

しかし、若くても覚えられない人というのは、「パソコンでもやっておかないと時流に遅れる」「就職に有利らしい」「『友達がインターネットでもやろう』といってきた」など、とりあえずムードが漂っていて、こちらとしても面白味がない。そこで、私は、話をする中でその人の興味などに探りを入れて、そこからパソコンを絡めるとどういう風な展開が考えられるか、そういうことをロマンたっぷりに語ることにしている。格好よく言えば「動機づけ」をカウンセリングしている様なものかもしれない。でも動機づけというのは、自分の内面から出てくるものなので、他人にちょっと言われたくらいで、「ほほーっ」となるのは稀だ。だからそういう時は、時期尚早なんだろうなと思って、こちらも深入りしないでおく。

ところで、子供の教育でも、同じことが言える。

例えば、英語などの語学を習得するのは「本人」であって、一方的にレッスンをつけられたって、本人にやる気がなければ、何年アメリカに住んでも話すことなど無理だ。でも、例えばすんごいベッピンで「ナイスばでぃ」なブロンド女性が、自分に好意を持ってくれている様だ、なんてシチュエーションになれば、大抵の男性は1ケ月もしないうちに基礎英会話くらいは話せる様になるはずだ。

だから語学教育なんていうのは、まず「モチベーションを育てる」だけで、あとは本人が自分から進んで学習するはずだといつも思う。だから小学生で英語の授業が必要か否か、なんていう議論の前に、外国人(これは英語圏のみならず)と接する機会を作り、例えば片言の英語だけでも通じて、お互いに楽しい雰囲気が味わえたなら、その中の何パーセントかの子供は、外国語でコミュニケーションできることに魅力を感じ、もっともっと話せたらいいのに、と思うことだろう。この時、全員が同じ様に感じるとは限らない。必要ないと思う子供もいるだろうし、はずかしくって死にそうだから、もう二度と英語をやりたくない、と思う子もいるだろう。でも、私はそれでいいと思うのだ。

じゃ、その時、動機づけを得られなかった子供はどうするか、というと、例えばそれから大人になって、それでも英語などの外国語の必要性を感じなければそれでいいし、60歳を過ぎてから急に外国に住む機会に恵まれたりしたら、その時に猛烈なモチベーションを感じて、それから時間をかけて習得のための努力をすればいい。

人間の人生は、今が必死、今が大事、今が一所懸命に生きているのだから、将来の保険のために、大事な若々しい「今」を、モチベーションなく使い捨てなくてもいいと思う。

みんなが自分の人生を大事に思い考えていれば、行政側に「その人間がとりくむべき課題、学ぶべきもの」を求める必要などないはずだ。

「基礎教養」などというと、何か人間として必要な知識のボーダーがある様に思ったりするが、それは人それぞれに違う。歴史上の人物を知っていることを「基礎教養」と思う人もいるし、今流行のアーティスト名や最新のニュースがそれだと思う人もいる。人それぞれにイメージするものが違うということは、万人に共通の「基礎教養の範囲」などというものはない。しいていえば「生活していくのに困らない程度」というのは言えるかもしれない。でもそういう知識の習得は、子供にとっても多くの場合、「知りたいという欲求」があるのが普通だ。それを持たないというのは、大人側の勝手な論理を押し付けられ続けてきて、感覚が麻痺しているのではないかと思ってしまう。

私の周りにいる子供達は、みな時計をよみたくてウズウズしているし、お買い物に困らない様に、たし算や引き算、かけ算ができるようになりたいと思っている。大人が読んでいる様に新聞の漢字も読める様になりたい、みんながみんな、知的好奇心の塊の様にキラキラと目を輝かせている。

なのに、小学生から落ちこぼれがいるとは何事だろうか。

それは子供の興味や関心を完全に無視しているからかもしれない。また実生活に繋がっていると気づかせてもらえなかったからかもしれない。子供自身のモチベーションなく、一方的に大人が教育していく。「将来にきっと役立つから」なんて言葉を7歳の時の貴方は理解できたであろうか。環境を整えて、子供の興味・関心をベースにして、何か一つを掘り下げて追究してみるとわかる。そのプロセスにいかに多くの「頭を使う作業」と「実生活に必要な知識の習得」が含まれているかに驚くことだろう。

私は小学校から高校まで、素直に普通の学生として過ごしてきた。自分の中に何が残り、何が消えていったかについてはよくわからない。ただ言えることは、大学の時に自分の研究テーマをみつけ、そのために膨大な資料にあたり、多くの時間を割き、一つの仮説を追究していった経験が、社会人になった時に一番役立ったのだ。その時の大学教授はこういった。

「みなさん、卒論のテーマは何でも構いません。どんなに小さなことでもいい。あなたたちは、何かを知りたいと思った時に、どこに行って、どんな資料を探せばいいかなど、その方法について、大学で自分のものにして下さい。そうすれば、社会人になった時、その問題解決の手法が役立つはずです。」

果たしてその通りであった。そしてそれは私にとって、これほど楽しい「学び」の時間はなかった。そしてたった一つのものを追究していった(そしてそのテーマは本当に何でもよかったのだ)そのプロセスは、きちんと自分の身に付いている。

自分の興味・関心を中心に学習をすすめるプロジェクト学習・テーマ学習は、小学校にも浸透しつつある。私はそれを歓迎したい。従来の、ただやみくもに、これで「子供を教育するという大人の義務は果たしましたよ」とでも言いたげな、大人のマスタベーション的な教育はもうやめだ。

モチベーションのないところに「身に付く学習」などあり得ない。

受験対策に、科挙的知識習得のための学習を強いる親もたくさん居る。他人様の価値観など否定するつもりはないが、少なくとも「少子化世代のイマドキの子供」が大学に入る頃は、大学受験はどういうものになっているか。日本にある大学の数、子供の数、考えてみただけで答えは出る。インターネットの世界を見れば、もっとよくわかる。

「東大卒」だからアクセスしたいサイトなんて一つもない。

他人の真似が評価されるはずもない世界だ。他の人にない何かをアウトプットできる人間だけが、評価され、存在を歓迎されるのだ。

だからこそその子なりの、その人ならではの「モチベーション」を大切にすべきだと思う。

「動機が不純」

結構、結構!素晴らしいではないか!

動機なく勉強させられ、結果的に何も身につかないよりも、ヨコシマでも動機があった方がいい。

だからこそ、教育にあたる大人たちは、そのモチベーション(動機づけ)の部分に、多くの頭を使うべきだな、と今思っている。
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