支配からの卒業

流行モノに疎い私は、疎い自分が大好きだった。尾崎豊の歌を聞くようになったのは、ほんの数年前のことだった。

子育てに必死で感動の涙も出なくなった数年間を経て、35歳で運転免許をとって車の運転をする様になってからだ。車の中で音楽を聴くようになった。学生時代の懐かしい音楽を聴きながら涙がこぼれた。あぁ、私も少し余裕ができたんだと思えた瞬間だった。

CDの選択はもっぱらダンナの趣味で、私は彼が強引にかけるCDを聞かせられていたのだが、その中に尾崎豊の歌もあった。「卒業」を聞いて涙がこぼれたのは、自分が親の世代になったからだった。どうして、親と子供が、敵対するかの様に、支配するものとされるものという構図になってしまうのか。親側は、いつもいつも子供のことを愛してやまないのに、どうして、こういう関係になってしまうのか。支配って何?先生がか弱き大人の代弁者って何?ざわつく思春期の彼の心の中を想像はできても、共感は出来ない。私には信じられる大人が沢山いたからだ。

TaTuのNotGonnaGetUsのクリップを見ていた時に、尾崎豊を思い出した。痛々しいほどの感受性。日本とロシアは似ているかもしれないなと思った。

それを見ていた私はオーストラリアに居た。この国には尾崎豊もタトゥーもおらへんよな、なんて思いながら。日本でこの歌を聞くたびに、心の中にものすごいエネルギーが沸き起こって、この歌について何か書かなきゃと思い続けていたのだが、一度オーストラリアに行くと、えーっと何を思ったんだっけ?という具合に、熱い想いでもってこの曲についてコメントすることができなくなった。同じ様に「個性の尊重」という文字を見ても、日本に居た時は、もういっぱい言いたいことあんねん、という感じだったのが、オーストラリアでは、「ええと何だっけ」というくらい拍子抜けした感情しか持てなくなってしまった。

何故か。

オーストラリアにおいては、「個性の尊重」などという概念を持ち出すことは、

「1+1は2でーすっ」と大声で演台で唱える

ことくらい、当然すぎることを声高に叫ぶ様な奇異なことに思えるからだ。それくらいオーストラリアでは、個々人があらゆる場面でリスペクトされている。

数年前、日本でミリオンヒットとなった「世界にひとつだけの花」という曲についても、私は聴いてみたくてたまらなくって、兄に頼んで録画してもらったDVDを心待ちにして紅白歌合戦の大トリをつとめる彼らを、ワクワクどきどきモードで見ていたのだが、見た感想は、

「で、何が良いのであらうか」

状態だった。

この歌のどこが良いのかサッパリわからん状態で、ダンナと二人、顔を見合わせては、私らは日本人のノリについていけないようになってしまったんやろか、と少し哀しくなった。自分のテーマだと勇気づけられている日本人が多いという事実を知ると、もっともっと哀しくなった。

私が思うに、この歌のテーマは「自分の価値観を信じて、強くそして悔いのない一所懸命な人生を送れ」ということであろう。オンリーワンと言っているが、槙原クンはナンバーワンを否定していない。横を見るな、周りの言動にビビるな。そんなものにエネルギーを使うな。しっかり前を向いて自分の人生を生きることに必死になるのだ。そう言っているのではないかと思うのだが、どうもこの歌にシンパシーを感じる日本人の共通認識は、「そうよね、私、このまんまでいいんだよね」みたいな部分じゃないのだろうか。

でも、そう思ってしまう素地が日本にはあるのだろう。生まれた時から当然の様に人間としてのリスペクトを受けて育って、だから他人もリスペクトできるという好循環の中で育っている人達とは違って、世間体なんかを気にする親のもと、個性の尊重以前に「たのむから日本人として真ん中の道を生きれるコースからドロップアウトせんとってくれ」というメッセージを受け続けた人は、大人になってからも、自分の存在とは何かについて悩まなければならなくなってしまうのだ。

もうそんなレベルの話は、小さいうちにカタをつけてあげて、大人になってからの人生は、自分で選んだ道をGo Aheadするだけでよい様に、大人が支えてあげなきゃと思うのだけど。

尾崎豊がオーストラリアで育ったら、彼はどんな歌を歌ったのだろう。少なくとも支配からの「卒業」なんて歌ってはいなかっただろう。きっと彼は、もっと刺激的なNYへ行くぜ俺は!みたいな歌うたってたんじゃないかしらー?

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