片時も忘れないで欲しい

士気を猛烈に鼓舞する文章の数々。その中に唐突に現れたこの文章。

自分としては何となくわかっていた気になっていたが、現実はそんな甘っちょろいもんじゃない、そう感じたことがあった。

彼女はまだ23歳。南米の国から来たミセスである。そして香港で現役のモデルをしている。明日英国に帰ってしまう友人と同じく、彼女も私と一緒に普通語を学ぶクラスメートだった。

毎日の様にクラスの後に仕事場へ急いでいた。仕事の打ち合わせやショーの現場に向かうのだ。有名ブランドの名前もあった。彼女はいつも底抜けに明るく、授業中にも思いっきり派手なジョークで授業を盛り上げていた。ゴージャスな身体のラインに男ならずともドキドキさせられてしまった。インテリジェンスを絵に描いた様なイギリス人女性が意外なほどに普通語の覚えが悪く、こちらも心配してしまうほどだったのだが、この美女は外見から受ける印象とは全く違って、自宅で予習復習もかかさず、単語の覚えが良いことに感心していた。いつも私の目の前に座り、自分の娘といってもいいくらいの歳の彼女を、惚れ惚れと見ていた。

ある日、彼女が新しいクライアントのところに、今までの仕事の実績を見せるために一冊のアルバムを持っていくというので、それを見せてもらったことがあった。実際に彼女が仕事をしているところの写真を見て、私は言葉を失った。アルバムの中の彼女は、一分のスキもないプロフェッショナルなモデルそのものであった。

実際、彼女と話をすると、インテリジェンスとは対極にあるような話し方をする。外見だけで生きてきたのかなと最初は思っていた。いいなー、あれだけ美しく生まれたら座っているだけでお金になるんだなとも思った。でも、彼女を知れば知るほど、彼女がそんな薄っぺらい人間ではないということがよくわかってきた。そしてそのアルバムの中の彼女は、求められるものを完璧にクリエイトするプロであった。ある写真では、実際の彼女からは想像もできないほどの挑発的な表情をしたものもあった。背中全体にタトゥーを施されている写真もあった。フェイクだよね、どれくらい時間がかかるの?と聞くと、そのタツゥーをするだけで一日じっとしていないといけないらしい。モデルという職業が私達の想像を超えた、厳しい仕事であるということが彼女のアルバムを見ていてよくわかった。

「確かにお金はいいけど、私ははやくモデルの仕事をやめたいの。」

感激しまくる私達を制止するかの様に、彼女は自分の感情を吐露し始めた。彼女は現在、香港の某大学にアプライしているらしい。インタビューを受けたがまだ結果は出ない。母国で学んでいたジャーナリズムをこちらでも続けて学びたい。香港でモデルをやっていて、香港人は私を白く塗り替える(撮影の際に、彼女の褐色の肌に白い化粧品を塗りつけるらしい)ことがある、私はこの肌の色が気に入っているのに、彼らは私をロボットの様に扱う。信じがたいほどの肉体労働なの。もうやめたい。私はインテリジェンスな仕事がしたいのよ。だってモデルなんて永遠にできる仕事じゃないもの。

そしてそれから私と二人きりになってから、彼女の顔はどんどんとこわばっていった。彼女は既にモデルの仕事をしてから15年たっている(つまり8歳から仕事をしている)。母国では、彼女の様に容姿が美しい女の子が、同じ様にモデル職を目指す。しかしそれは相当な競争率を勝ち抜かねばならないらしい。そしてその幼いモデルの子供が一人で一家、いやそれ以上の親戚一同を食べさせているということが少なからずあるそうだ。そうやって彼女も家族を養ってきたのだ。貧しい国、貧しい人達。ひどい世界。彼女は自分の幼い時の記憶を思い出すのも嫌という風に、首を横に振った。

もういいだろう。家族のために自分の全てを使ってお金を作ってきた。もうその呪縛から解き放たれてもいいだろう。そう彼女は思っている様だった。

モデルをやめたいと彼女が言った時、「もったいない」と叫んでしまった自分の薄っぺらさが哀しい。彼女よりももっともっと多くの年月を生きてきたのに、私には見えてない世界がありすぎる。普通語の覚えが良いことの理由がわかった気がした。彼女にとっては、モデルとして脚光を浴びることよりも、お金を稼ぐことよりも、もっと欲しいものがあったのだ。誰の命令も受けず、静かに自分のインテリジェンスを磨く。お金を稼げてもロボットの様に扱われるショーの現場に、彼女の夢はないのだ。

「片時も忘れないで欲しい。
どんなにあがこうと、どんなに苦しんでいる気分に浸ろうと、僕達は圧倒的に恵まれている存在であることを。」(杉村太郎,2004)

Reference

杉村太郎.2004,アツイコトバ,中経出版、東京

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