夢で会えたら

運転免許証を取得。セダンから8人乗りの中古車に買い替え。ドライブが楽しくなってきたある日のことだった。

私は自宅すぐ前に停めた車に颯爽と乗り込みアクセルを踏んだ。自宅から出て左折。横断歩道に人影が見えた。その人と目が合った瞬間。

私は叫び声をあげながらブレーキを踏んだ。

が、

間に合わなかった。

という夢を見た。

昔から私の見る夢には、色、音、温度、味や匂い、生々しい手の感触など全ての感覚がある。慢性的な睡眠不足で寝床に入った瞬間に朝、という日々を数年続けているので、夢を見るのは、時々まとめてたっぷり眠れた日の朝方に多く、そしてそんな時には、誰かが私に何かを伝えようとしているのではないか、そんなことを強く感じる夢を見ることがある。

ドライブに慣れてきた私への警鐘だったのだろうが、私はその夢の中で、人を轢くときの車のものすごい衝撃、直前に目があってしまった被害者の人のこと、そしてその時、叫び声を上げながらブレーキを踏んだにもかかわらず、無常にも数メートル私の車が進んでしまったという事実。そんなもの全てを疑似体験してしまった。そして。

その時の私自身の感情も。

今でもありありと思いだすことができる。

一人の人間の鼓動を止めてしまうというその瞬間、私は、被害者の方のことなど少しも考えてなかった。気が狂いそうに叫びながら私の脳裏をかすめた言葉。

私の人生これで終わりーーーーーー

私はそう思った。確かにそう思っていた。

夢からはっと目が覚めて、夢だとわかり、私は誰も殺していないと気がつき安心した。と同時に、冷静になった私の脳裏から離れない、私自身の冷酷な感情を思い出し身震いがした。私って結局は自分のことしか考えていない非情な人間だったのだ。

そして1週間ほど前、もっともっと哀しい夢を見てしまった。

私は子供たちの運動会を見に行っており、何故かそこには私の子供のうち3人しか居ない。その場にいない一人は、昨年の運動会には居たのに何故今年はここに居ないのかな、寂しいな、もう一度会いたいなと、何度も何度も思っていた。そこへ携帯電話が鳴り出てみると、その場に居ない、そう、何故か亡くなってしまっていた私の子供からの電話だった。

私は驚いて、今何処にいるの?どうしてここにいないの?会いたいからすぐ来てと何度も懇願するのだが、電話に出たその子は、もうそんなことはどうでもいいから連絡したいことがあるから、それだけを言うために電話をかけてきたのだから、それを言わせてと言いたげだった。

私は何とか会話を引き伸ばそうと必死になって何度も問いかけた。その子供は、とても面倒くさそうに、言いたいことだけ言うからちゃんと聞いてね、と言うのだ。私は、わかった、わかったから何なの?と聞いてみた。夢の中でその子が言った言葉に、私は愕然とした。

あのね、ママちゃん。目の前に居る子供を見ていないっていうことは、その子を殺しているのと同じことなのよ。

情けないママをたしなめるように、その子はもう世話がやけるんだからと言いたげに電話を切った。

残された私は、夢の中でも目が覚めてからも、その言葉がどこからやって来たのか、誰が夢の中でその子に言わせたのか、亡くなった大好きだったおばちゃんが、私に何かを伝えに、私の子供を使って言わせたのかな、と色々と考えてしまった。

目が覚めてからも、私がちゃんと見ていなかった子供は誰だろうかと、一人一人の最近の言動を色々と考えてみた。全員かも知れないし、その中の一人かも、二人かも知れないし。わからない。私はどうすべきなのかがわからない。

それから数日間、忙しい中でもふとその台詞が蘇り、今までよりも今年は、子供たちの方にも気持ちが向いているし、私は子供を受験などに駆り立てることもしないし、その子その子の良い部分を見て、必死で目の前の子供たちを見ているつもりなのに、それでも足りないのかと思うと絶望的な気分にさえなった。

答えがどこにあるのか見当もつかない、そんな気持ちで数日間を過ごしていたのだが、先日、何故か「あっ」と自分なりの答えが見つかってしまった。

私が見ていないのは、私自身。私が殺しているのは現在の私。
私はいつも、自分自身の内面をフィルターにしつつも、見ているのはいつも将来の私。もう物心が着いた頃から、私が見ているのは未来の自分しか居なかった。

今の自分自身の生活をエンジョイしよう。

そんな甘っちょろいことに気づいたのではない。

私は自分の中に無いものを獲得しようと毎日必死。ある程度獲得したと思ったら、次なる標的がどんどんと増幅していっている。目の前にはTo Do Listや目標やスケジュールがびっしり。それを消化することで、確実に過去の自分との差分を認識し、成長を実感する。でもその次には新たなリストが増えて、私の人生にはゴールがない。私は自分の足元を見たことがない。過去を振り返ることもない。ゆっくりとソファーにすわってぼーっとすることもない。常に2つ以上のことを同時進行させる。子供にまで、ママちゃんは普通の人の何倍もの人生を生きてる、なんて言われていい気になっていたが、実際のところは、私は一人分の人生もしっかりと生きていない。

私は常に幽体離脱するかの様に、意識をふわふわと将来に浮かべ、自分自身を見ていなかった。現在の自分を見ていない人が、目の前の子供たちのことを本当に見れていたわけがない。もちろん、子供たちと過ごす時間を楽しいとか、カワイイとか思っていて、全くないがしろにしているわけではない。でも、私は子供に何かを期待することなど何もない。私は自分の将来にだけ期待をして、子供の人生は別物だと思っている。それは私自身としては子供の人生を私物化してはならない、という表面的には立派な思想をバックにしているつもりだったが、それは同時に、地に足ついた日々の生活の中に人生がある、という考えとは交じり合わっていなかった気がする。

ある日、子供たちと夜道を歩いている時のことだった。何かの話のひょうしに、

人間はいつか死んじゃうのにね、今やっていること全てが無になっちゃうのにね、じゃーなんでこんなに必死になって生きてるんだろうね、生きてても死んじゃうのに、なんで人は生まれてくるのかな。

ちょっと自嘲気味に言ってみたが、次男がこんなことを言った。

ママちゃん、僕思うんだけどね。人はね、楽しむために生まれてくるんだよ。だからいいんだよ。いつか死んじゃってもね、意味ないことないんだよ。

人間の命は尊い。彼はどこでそんなことを思う様になったのか。こんなキレイでもなく、料理だって掃除だって手抜きして、毎日毎日忙しいばかりの私のところに生まれてきて、楽しむために生まれてくるだなんて、そんなキラキラした瞳で言ってくれちゃって。

泣けちゃう。この子たちと過ごせる時間は限られているのに。

だからと言って手を緩めないよ。夢があるからね。でもそんな中でも今の自分自身を受け入れる方法があるはず。どこかに何かのヒントがあるはず。毎日毎日そうやって考えていたら、いつかまた夢で誰かが教えてくれるかな。

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