オージーママとの議論

2003年。オーストラリアでの生活に慣れてきて、英語の勉強に本腰を入れ始めた頃だった。

相変わらず儲かるビジネスを考えるのが趣味であった当時の私は、PISA2003の結果を見てポンとヒザを叩いた。

これはイケル。

一気に企画書を書き上げ、数字を押さえておかねばとPISAの結果をひっぱり出しつつ私はニタニタであった。私の企画を色々なママさんに話してみると、皆一様に、アケミ頭いいわね、是非やりなさい、そう背中を押してくれた。それは、

教育教材の企画、出版会社である。

実は、オーストラリアでは本をはじめ、コドモたちの教育教材(要するにドリル類)などが存在はしているものの非常に高い。日本であれば数百円でも結構しっかりした紙質のものが手に入るが、オーストラリアでは薄―いドリルがかなり高価。こんなの買うヒトいるんかいなという値段であった。それで、日本にあるような廉価版の教育ドリルを販売したら、絶対売れる、そう思ったのだ。おまけにPISA2003の結果、日本の数学はトップ6で、オーストラリアがトップ11であったのだ(ちなみにトップは、香港、フィンランド、韓国)。日本は充分にトップレベルに食い込んでおり、日本の教育メソッドを取り入れたいと思う家庭も多いだろうと思ったのだ。

皆の賞賛を受け、自信満々で某友人に対しても同じ様に私のビジネスアイデアについて熱弁をふるった。彼女は非常に頭が良く独立心が強く、私が常に一目置いているヒトだったのだが、彼女は歯に衣着せぬ口調でこう言い放った。

友人だから言うけど、あなたのそのビジネス成功しないと思う。
それは、あなたのビジネスが陳腐だからというわけではなく、オーストラリア人の教育に対する考え方が、あなた方アジア人とは全く違うからなの。

私は正直言って彼女が何を言いたいかがよくわからなかった。私はそこであわてて反論した。

だって、あんなに高いドリル誰も買わないじゃない。だから安いものだったら、子供のために一冊くらい買おうと思う、そういう親もいるじゃない。私は何もデカい商売を期待しているわけではなく、ニッチを狙えばいいと思って….。

彼女は根本の前提条件が違うのだと言いたげに私の言葉をさえぎった。

誰が買うの?少なくとも私は買わない。多分多くのオーストラリア人の親達は、そういうものを買おうと思わないんじゃない?だって、小学生の子供にとって一番大切なのは何?机にかじりついてワークすることが大事だって思う親は、オーストラリアには多分一人も居ないと思う。私だったら、まず社会性を身につけて欲しい(develop social skills)と思うの。

それに….

彼女は本腰を入れて話し始めた。彼女はある日本人の女の子がメルボルンにある○文式の塾の宿題をやっているところを見たことがあるという。その女の子は非常に頭が良く、肘をつきながらサラサラとその問題を解いて見せた。その姿を見て彼女は憤りを感じたらしい。

あれが勉強(study)?日本人はあれを勉強と呼ぶのね。生きた知識でも経験でもなく、ただ机の上で鉛筆を動かすことだけが勉強だと呼ぶのね。でもあれ、勉強なんかじゃないわよ。あぁいうのは、パズルと呼ぶの。

このセリフは私にかなりの衝撃を与えた。
ビジネスにならないとかそういうレベルではなく、保守的な日本にあって自分は多少前衛的なモノの見方をしているのではないかと自惚れていたが、自分のモノの考え方が、いかに井の中の蛙であったかを、38歳にして知らされてしまったからだ。

私でさえ、机の上で鉛筆を動かすことが勉強だと思っていたのだ!私は自分の企画書を力なく破り捨てた。

正直言って、語学学校などで行われるアクティビティ中心の授業に疑問を感じていたこともあった。教育というのは教育者が明示的にプロセスを設計し、それを一つも欠落することなく教授するものであると思っていた。そのために勿論教科書が必要だとも思っていた。しかし語学学校では教科書などなかった。新聞やテレビ、一般書籍を使って行われる授業に、こんなことやってても遠回りじゃないか、と思うことが多々あったのだ。重複したり欠落したり、どうしてくれるんだと言いたいこともあった。
冷静になって考えると違うことが見えてきた。100マス計算を強いられることもないオーストラリアの子供たちであるが、トップ11につけている。塾にも通い、そろばんも習い、学校からの宿題もこなす日本の子供たちが6位で、リーディングはするけど数学の宿題なんかそんなにあるのか?というオーストラリアが11位だ(とは言ってもPISAの対象者は15歳、小学生ではないが)。日本の効率が悪いと言うべきか、オーストラリアが健闘していると言うべきか。私は頭の中がこんがらがってきてしまった。

話を整理する。

私の混乱の原因は、「勉強」という言葉のもつイメージだ。私たち日本人が考える「勉強しているコドモの姿」というのは机に向かっている姿に違いない。誰もトランポリンでジャンプしていたり、音楽を聞きながらダンスしながら、そういう図ではないはずだ。しかし、勉強の目的が「知識や技術の習得」または「将来に必要なモノの考え方を獲得する」と定義するならば、その結果を引き出せるのであれば、方法論を問う必要はない様に思えてきた。結果的に得られるものが同じであれば、何もしかめ面でウンウン唸る必要もない。いや、むしろ自分の経験から言うと、すっごい面白かったり意外な驚きがあったり、内面からじわじわと感動したりと、そういう感情を伴った時の方が知識の定着率が良いとさえ思う。

ちょうどその頃、100マス計算で成績が上がっただけではなく、コドモ達の情緒も安定してきたという話が日本にあった。この難しい時代に情緒の安定というキーワードは多くの日本人の親御さんの心をぎゅっとつかんだに違いない。それを見て日本の子供たちがかわいそうになってしまった。他に情緒を安定させる方法がないのか。

宿題はリーディングだけ。忘れ物チェックもない。お弁当は自分の好きなもので、スナックタイムもある。大きな校庭で走り周り、夜遅くまで庭で走り回り、満天の星を仰ぎながら家族みんなでBBQ。情緒が不安定になりようのない環境で、何がうれしくて100マス計算に情緒の安定を求めるかいな。

とは言っても我が家が現在住んでいるのは、日本以上に教育加熱沸騰中の香港。PISAの結果もぶっちぎり、さすが科挙試験の本場ですわな。まさに「机にかじりつくのみが勉強」と信じて疑わないこの国での我が家のコドモたちの変化は、いつか書ける日が来るのかしら?(笑)。

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