Identity – II

台湾系米国人の彼女の言葉を忘れるほどには時間が経っていない頃、私が知っているだけで7種類の言葉を操る人と話をする機会があった。少なくとも、私は彼女の話せる言葉のうちの3ケ国語を、仕事上の電話で使っているのを横で聞いたことがある。少なくともその言語はビジネスレベルにあると言っていいだろう。

彼女は国際結婚をしていて、私にとっては非常に羨ましい家庭内環境にあるにも関らず、彼女は自分の子供を「単一言語」で教育しようとしているのを見て、私はぎょっとなってしまった。少なくとも、父親と母親の母国語が違うなら、その二ヶ国語くらいは環境として与えても良いと思うのに。

「なんでー、もったいなーい」

というこれまた安っぽいリアクションをした私に、彼女は、前の彼女と同じく、一瞬口をつぐんで、そして一呼吸おいてから、意を決した様に語り始めた。

「私自身にね、アイデンティティの混乱があるのよ。って言うか、アイデンティティがどこにあるのか分からないの。それがね、もうとっても苦しいの。夜中にガバッと起きて涙が出ちゃうこともある。だから私は子供には確固たるアイデンティティを持たせてあげたい。」

多分、彼女の苦しみは私には一生理解できないと思う。
言語とアイデンティティって関係あるのか?

彼女に母国語は何かと尋ねても、強いて言えばこれかな、という言語はあるにはあるが、ここ数年使う環境には居ない。要するに住んでいる土地の言葉が次第に第一言語になってきてしまう(つまり現在は広東語!)、という私には信じられない様な超人的なことを言うのである。

彼女の悩みは外からは絶対にわからない。
自信に満ち溢れたキャリアウーマンにしか見えない。
彼女が喉から手が出る程に欲しい何かを、彼女はまだつかめていない、のだろう。

日本人として、日本のパスポートを持ち、日本語を読み、日本語を話す私は、彼女達から見ればきっと、「確固たる日本人としてのアイデンティティ」が備わっている人として映っているのだろうか。

これは「日本人らしい行動様式」だとか「典型的な日本人的発想」を会得している、という話ではない。アイデンティティを語るのに、「日本人として」というのはどうでもいい話だと思いたいのだが、そうは簡単には片付けられないかも。

私も一瞬、フラッと来たことがあったっけ。

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