Identity – III

香港に来て子供たちが学校に通い始めてしばらくしてからのことだった。
子供達の学校には多くの日本人が居て、子供たちはそれをとても喜んでいた。

もちろん日本の子供達と遊ぶ様になると、我が家にも日本の方から電話を頂くようになった。それが何回か続いたところで、私は自分をどこに置けば良いのかがわからなくなった。いや誤解を恐れずに言うと、私は自分を何人だと捕らえれば良いのか混乱して来たのだ。私は100%日本人なのに。

日本の方の話す言葉の内容が、全く見えなくなっていたのだ。

オーストラリアで生活した2年半。ノーはノーで、イエスはイエス。ノーは相手の人格を否定しているわけでも、拒否しているわけでもなく、単なる「いいえ」。相手の言葉の行間を読む必要もないし、ビジネスを学ぶ学生でもあった私は、行間を読ませることは、相手に対する思いやりのなさの現われだとさえ思っていた。

だから行間を読ませる必要のないように、誤解を与えないように、きっちりと自分の意見を言うのが100%正しいと思っていた私は、電話口の向こうのママさん達のおっしゃることが、イエスなのか、ウェルカムなのか、ノーなのか、はたまたノーなんだけど問題ないレベルなのか、イエスと言っているのだけど本音は激しくノーなのか、全く見えなくなってしまっていたのだ。

電話を切って頭を抱えることが数回続いた。
何度考えても相手の真意が読み取れない。相手の感情を読み取るのを得意としていた(と思い込んでいた)私は、鍛えなければそういう能力さえも失ってしまうということに気づいた。私には、もうその能力はない。そんな私でも、電話をかけ直して、先ほどのおっしゃる意味は何なのですか?と聞き返すような真似だけは、決して受け入れられないだろうということだけはわかった。

私、日本人じゃない、のか?

でもオーストラリア人でも韓国人でもないのだ。もうインドあたりの国の人になっちゃいたい様な衝動にかられたりもしたが、しばらくすると子供たちの交友関係のシフトとともに、悩むことも無くなった。それからやはり1年くらい経つ。

コスモポリタンとして生きられればいいのに。

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