現実は常に私の生き方を試す

もう10年近く前の話である。
私が住んでいた東京都江戸川区の某駅前にある公園での出来事だった。

公園には時々、所謂ホームレスのおじさん達がやってきては、子供たちをボーっと眺めていたりしていた。公園に居合わせたママさん達は、きっと怪訝な目で彼らを見ていたに違いなかったろうが、当時から公園でもプログラミングの本などを必死で読んでいた私は、周りの状況が全く見えてなかった。空気も読めていなかっただろう。

ある時、そのホームレスのおじさんの一人が、私の長女と長男の方に近づいて何やら話しを始めた。私はそれを何となくぼんやり眺めていたが、そのおじさんは、彼が食べていたスナック菓子を長女の手に握らせた。

突然私のところに、親切なママさんがすっ飛んで来てこう告げた。

「気をつけて。ごみ箱から拾ってきたのかもしれないし、どんな病気を持っているかも知れない。賞味期限切れているかも知れない。食べさせたらだめよ」

そのママさんの顔には意地悪そうな雰囲気は全くなかった。本当に心底私の子供のことを心配してくれているのがよくわかった。私はどうしようかと思いながらも、とにかくそのおじさんの所に行って、お菓子を頂いたのだからお礼を言わなきゃ、そして、ひとまずそのお菓子の処分については後で考えようと思ったのだ。

走り寄った私を認めて、彼はまるで私たちのさっきの会話が聞こえていたかの様にこう私に言った。

「あの、本当に僕がお金を出して買ったものだから。拾ってきたものと違う。食べて。」

私は言葉を失った。

子供たちはその袋からスナックを取り出し、それを大きく開いた口に持って行こうとした。

私の後ろで状況をずっと見ていた周りのママさん達の緊張感が私にも伝わってきた。

私の心の中で涙がこぼれそうだった。大げさに言えば、自分の子供の命と、このおじさんの言うことを天秤にかけなければいけない、そういう状況だった。時代は既に愉快犯による犯罪も増加していて、むやみに見知らぬ人と話をしてはいけない、そういう社会になっていた。

そこで私は観念した。

もしこれでうちの子供達が死んだら、私がその責任を、その後悔を一生背負うという覚悟だった。でも、きっとこの覚悟は無駄に終わる、そう信じたかった。事態は静かに進行していた。

私の後ろで「あー、食べちゃった。私知らない」というママさん達の声が聞こえた。

私は静かに気を取り直して腹を括り彼にお礼を言うと、彼は「おいしいか?」と子供たちにやさしい眼差しを向けながら尋ねた。子供二人ともが大きな声で「うんっ」と言うのを聞くと、満足そうに公園を後にした。

その時。
私は、そのおじさんが嘘をついて子供を騙しているとは決して思えなかった。

自分の行為が誤解を与えるかもしれないということを知っていながら、なけなしの現金で買った大事なスナック菓子を、他人に分け与えるという行為は尊いもの以外の何物でもない。

それに子供たちの前で、そのお菓子をつきかえしたり、また何も言わずに子供たちを抱きかかえてその場を離れる様なことがあれば、子供たちは何を思うだろうか。暖かい尊い気持ちを踏みにじる方が、私にとっては耐え難いことだったのだ。

そして、そのおじさんには、子供たちが頂いたお菓子を喜んで食べる姿も見てもらいたかった。彼が居なくなった後ではなく。

もちろん、これは結果論だ。
うちの子供たちには、何の問題も現れなかった。だから言えるのだ、それは私でも分かっている。

難しい時代だ。
綺麗な心でありたいと思うが、無知なために人間が死ぬことだってある。
現実は突然にやってきて、私の生き方や考え方を試す。ハートで感じとるしかない、のかも。

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