The Wisdom of Crowds

地球温暖化のエセ科学

私は今でもずっと彼のメールマガジンを購読し続けている。実は一時ものすごく面白いと思ってバックナンバーまで一気に読んだこともあったが、最近はほとんど読んでいなかった。タイトルを見た瞬間に内容に想像はついたが、私は、彼の個々の主張に反論する術を持たない。

ちょっと違う話をする。

最近、中国漢方についてとても興味があって本など読んでいるのだが、中医学と西洋医学というのは、本当に物の見方や考え方が違う。と同時に知識管理なんかの勉強もしている私は、西洋的な物の見方(所謂サイエンス)、中医学的な物の見方、そして日本的な物の見方の間でウロウロしていて、ここ2ヶ月位は本当に頭が爆発しそうなほど苦しんでいた。

私は大学の学士論文で多変量解析(因子分析)なるものをテーマに研究を行っていたため、「原因と結果」を分析し、その上その原因に含まれる因子までも明確にしてみたい衝動にかられるのが常であった。ロジカルシンキングやMECEといわれる「ダブりのない構成要素」というような物の考え方が大好きで、こういうモノが実現されてこその美しいビジネス、をずっと志向してきた。

当時のゼミの教授の口癖は「存在するものは測定できる」というもので、心の中のものであっても、存在する限りは測定することができると彼は主張した。それはその方法論を確立した絶対の自信と、また人間の英知がそれを可能にするはずだという期待もあっただろう。そんな教授の思考プロセスに心酔しきって、物事の因子を徹底的に探ることで、そこから解決の糸口を見つける、そういうスタイルで今まで来てしまった。そしてそれは私だけではなく、典型的な西洋的な物の見方と言えるだろう。原因があって結果があるのだから、問題解決のためには原因を探ることが一番の近道である、そういう考え方が今では一般的になっている、と思う。

ある時点から、個人の内面の問題を過去のトラウマと結びつけて語る論調を多く目にするようになった。もちろん、そういう方法論もあり、それで問題が解決するなら万々歳である。でもそれが万能ではないような、そう、西洋医学やサイエンスが万能ではないのではないか、ということを、最近リアリティをもって感じるようになってきた。何を今更、なのかもしれないが、私にとってはかなり劇的な心境の変化なのである。

そう考えるようになったきっかけは、二つある。あの河合隼雄さんの著書の中に出てくるエピソードと、うちの子供に起こったあるエピソードである。

河合隼雄さんは、臨床心理の現場で箱庭療法を取り入れていらっしゃるのだが、その患者さんが治癒していく過程で、例えばこういう事例が結構あるのだそうだ。普通のカウンセリングであると、子供時代のトラウマと向き合い、それを解決していくことが目的みたいになっているが、彼の場合は、その患者さんとほとんど、その本質的な部分(いわゆるトラウマみたいなもの)にまったく触れることなく、何となく来る日も来る日も箱庭を作っていく間に治癒してしまう人がいるらしい。で彼はそういう患者さんのことを、それでええんやないか、というわけなのだ。何もあなたがそうなった原因はこうです、という犯人探しをしないで治癒するのであれば、それでいいやないかと。それを最初読んだ時には、まだまだ心理測定法ゼミの思考でいた私は、「それってプロの仕事なのか」と若気の至りで思ったが、最近になってその凄さというものをヒシヒシと感じるのだ。で、この一見関係のない、箱庭、取るに足らない会話、そして人間心理の間で、サイエンスでは解明できないけれども、何らかのポジティブな相互作用があって、結果的に治癒していった。そうやって目に見えない経験の積み重ねでもって、サイエンスの域を超えたところで、また方法論が確立していっている。このプロセスというのは中医学的なものと少し似ているかもしれない。

私自身にも似たエピソードがある。

長男に食物アレルギーがあると分かって、来る日も来る日も彼が食べられるモノを作り続けていたある日、私は不思議なことに気づいた。長男は昔から口数が少なく、自分のことを話すことなどあまりなかったのだが、その彼が何やら私のところに意味もなくやってきては世間話をするようになったのだ。学校でこんなことがあったとか、今まで考えられないような普通の会話を私にしてくるようになったのだ。多分その原因を探れば、きっと彼のために私が時間を割いていることを知り、親の愛情を知り、安堵し、自信を持つようになった、ということかも知れない。でもそんなことはどうでもいいのだ。そんなこと探らなくっていいのだ。

地球温暖化の話に戻る。
ゴア氏の主張も、田中宇氏の主張も、サイエンスの世界で起こっていることである。その世界の中での細かな数字や基盤にしている理論によって、結論に差が出るのは当然である。地球温暖化に絡む全ての因子を明確にし、それの結果を正確に予想することが出来ないのであれば、人間の勘(これも「知」なのであるが)に基づいてみていいんじゃないか、それぞれの人間が良かれと思う方向にどんどん動いていったらいいんじゃないか、そういう気がするのだ。

結構無責任に聞こえるかもしれないが。

梅田望夫さんの言う「群集知(個々の人間の判断はそれぞれ異なるのだが、集合体全体の出す結論というのは、案外正しいのではないか)」や、宋文洲さんのブログで紹介されている「一見合理性に欠ける個々の投資家の投資行為によって形成された相場は不思議に合理性に富む」という主張など、非常に興味深いのであるが、要するに結論としては、地球温暖化の問題には因果関係が立証されていないものも多々あるが、世界規模でその温暖化を食い止めようというムーブメントが起きている、(だからその結論は)その群集知に任せていていいんじゃないか、というのが私の主張である。

サイエンスの世界は全てを解明してくれるわけではない、だからそれのどの部分が正しくて、その部分が間違っているというという論争が起きている間にも、群集はある方向へと向かう。勿論歴史を見ても、群衆知が常に正しいわけではない。でも何が正しくて何が間違いなのかというのも、自分の立つ位置によって違う。

だから。

一見無知でナイーブな反応に見えるものでも、結果的には正しい選択であることもある。小難しいことを考えなくてもいい。難しい理論なんて知らない。でもハートで感じて堂々とアクションを起こせばいい、私はそう思うのである。

私は長年「無知は罪」と思ってきたのだけど、何もかも知ることなんて不可能。だから「無知の知」の大切さに気づいた哲学者は偉大。

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